誰もいそがない町2005/10/09 20:59

というのが、今度出る本のタイトル。
良書で有名な、ポプラ社から出ます。
まあ、タイトルからもわかるように、ゆったりとしたショートストーリー集です。
あえてショートショート集、と書かなかったのは、そういう理由があるから。
これはショートショートと、童話と、詩と、漫才とを足したようなものを意図して書いたからなんです。

さあ、ここでぼくはまた同じ失敗をしたのかもしれない。
このブログで以前、東洋一の本を書店の店員さんがどう扱うか、という報告例を書きましたね。まさにその時の教訓が生かされていない。
どのカテゴリーに入れるか、ジャンルがハッキリしないものを、意図して書いてしまっているわけです。
だってねえ、もうすでに誰かがやったことなんか、後追いしたって面白くないもの。

ううむ。またしても、書店員泣かせの本なのか?

タイトルは「誰もいそがない町」ですが、ぼくをはじめ関係者はいま、大変いそいで校正をやってます。
11月7日発売です。

こんなにも、いそがない企画12005/10/18 01:47

「誰もいそがない町」という本が発売される(ポプラ社・11月7日)。
ぼくの本としては17、8冊目になるだろうか。とても気にいっている本だ。だが、これほど変わった経緯で、しかも実現までに時間がかかったケースも珍しい。
いくらタイトルが「いそがない」とはいえ、こんなにもゆっくりしてていいのだろうか?よくはない・・・と思うのだが、結果としてこうなってしまったのだ。
ここに至る、長い長い物語を書いておこう。

この物語は1991年10月に始まる。
当時、ニッポン放送で「イルカのミュージックハーモニー」という番組が始まった。ミュージシャン・イルカさんの番組だ。(現在も続いている。なんという長寿番組!)
ぼくは作家として、この番組を立ち上げた。
この中で「ポケットファンタジー」というコーナーを書くことになった。
ぼくの出身が星新一ショートショートコンテストなので、その手の物語を要求されるケースは多い。そして、多くのショートショートやドラマを書いてきた。しかし、これは日曜の朝の番組だ。ゆったりした音楽番組の中のコーナーだ。こんなところに、オチの効いたショートショートは似合わない。
というわけで、自分の中では「ショートショート」と「童話」と「詩」を足したような物語を書こうと決めた。オチがあるようで、ない。ないようで、ある。エッセイのようでもあるし、物語のようでもある。シンプルで、子供が聞いてもわかるが、これは大人に聞いてもらいたい。
そういうオリジナルストーリーを、毎週1本書き下ろすことになったのだ。
楽しいが、大変なことだった。

いまから、14年前のことだ。
(続く)

こんなにも、いそがない企画22005/10/19 01:19

(続き)
こうしてぼくは、番組のために、毎週1本ショートストーリーを書くことになった。
放送は日曜の朝だが、原稿がキチンと前日にあがるとは限らない。
時にはウンウンうなりながら書いて、本番数時間前にようやくFAXすることもあった。
時代は1990年代初めだ。まだメールは一般的ではない。ぼくはパソコンも持っていない。ただ、ワープロ専用機は使っていた。(が、この原稿は手書だった)
まだ、FAXがあるだけ楽だった。そのわずか5年前にはFAXも一般的ではなく、早朝に必要な原稿は、前の日に書いて放送局に置いておくか、朝に局に持っていくしかなかったのだから。

自分でも気に入ったものが、けっこう書けた。
反響もよかった。一度、ディレクターに言われたことがある。
「放送を聞いていたリスナーから電話がかかってきました」
それは、若いサラリーマンだったという。タクシーのラジオで聞いていたら、ストーリーがいたく心に感じいったらしい。で、あわててタクシーを降りて、公衆電話から(当時、携帯電話はない)
「原作を教えてください!」
と問い合わせてきた、という。
作家冥利に尽きる話だ。
ぼくは、実は、社会に出て数年のサラリーマンやOLさんの顔を想像しながら書いていたのだ。もう子供ではなく、とはいえ社会ではまだまだ弱い存在で、自分の非力さや挫折感も感じている人。そんな人が、日曜の朝に聞いて、なんとなく元気を取り戻したり、ほんわかした気分になってくれたらいいな、と思って書いていた。
だから、このエピソードは、とても嬉しかった。

こうして、順調に2年半がすぎた。
1994年春、アクシデントがおきた。
(続く)

こんなにも、いそがない企画32005/10/21 00:18

(続き)
1994年春、ぼくは体調を崩し、病気になってしまったのだ。
数ヶ月、あちこちの病院に通ったものの、診断されるのは暗い内容ばかり。
気が滅入ってしまったので、一ヶ月、すべての番組を降り、入院した。
「ポケットファンタジー」は、友人の作家が「復帰したら、藤井くんに戻すから」という暖かい条件で、代ってくれた。その作家にも、スタッフにも感謝しましたね、ぼくは。
結局、症状はよくならなかったが、退院。治癒はしないのだが、なんとか日常生活に戻れた。
これからは病気とつきあいながら、騙し騙しで行くしかない。
「厄年にしては、ちょっと早すぎるなぁ」
とぼくは思った。万事、人より先に何かをやりたがる性格なのだが、こんなことまで人に先んずる必要はないだろう、と。

現場に戻り、「ポケットファンタジー」も再開した。自分的にも、また気に入った作品が書けるようになった。調子が戻ってきたのだ。
ところが、翌1995年春、突然、番組を降りることになった。
理由はよくわからない。が、放送現場では、時としてあることだ。
釈然しなかったが、ぼくは番組を降りた。

手元には150本ほどのショートストーリーの原稿が残った。
最初に書いてから、3年半が経過していた。
(続く)

こんなにも、いそがない企画42005/10/22 12:26

「誰もいそがない町」という本が発売されるにあたって、ここに至る、長くて、あまりにもいそがない物語を書きおこしている。

(続き)
番組を降りると、手元に原稿の束が残った。すべて手書きで、一話はペラ(200字詰原稿用紙)12、3枚。これが150本ある。なんだか、自分の元へ戻ってきた子供という感じだ。読み返してみると、出来のいい子供もいれば、ここをこう直せばよくなるのにという子供もいる。出来の悪いのもいる。出来の悪い子もそれなりに可愛い、というのは実際と同じなんだろう。全体的に、かなりいい作品が多かった(自分で書いたのだから、当然そう思うのだが)。
そこで、
「これを書き直して、一冊の本にできないだろうか」
と思ったのだ。
なにしろ全部で150本もある。その中から数十本を選ぶだけで、本一冊にはなるだろう。

サンプルに、手書き原稿をワープロ打ちしてみる。
放送原稿と本のための原稿は違う。細かい加筆や訂正が必要で、手間のかかる作業だった。けれど、その手間が楽しい。
まだ出版のあてがないので、自分の好みだけを考えればいいのだ。これは面白かった。ぼくにはファンジンの経験はないが、たぶんこういうことなんだろうなと思った。なんというのだろう、一個一個手作りで、自分のためだけに宝石を研磨していくような作業。

こうして何本かをワープロ打ちして、知り合いの編集者に見せてみた。
最初に原稿を書いてから、5年近くがたっていた。
「あのぅ…ええと…、これ、今までの藤井青銅のイメージとは違うんだけど、こういうのも、どうかな、と思って…」
この手の原稿を、目の前で人に読まれるのは、とても恥ずかしい。「笑い」の原稿なら自信を持って見せられる。けれど、心温まるものとか美しい話は、恥ずかしくてしょうがないのだ。純愛ものの作家さんは、よく編集者に見せられるなぁ。

さて、編集者は原稿を読んで、どう反応したか?
(続く)