まとめ ― 2011/04/21 02:07
複数の方から問い合わせがあったので、4月8日に連続ツイートしたものを、まとめて掲載しておきます。どうやらツイッターの世界では、そうしておくのが慣例のようですから。(連続文をまとめた以外、文章はそのままです)
「ラジオについて」
「ラジオにもほどがある」という本は、ほぼ1年前に原稿の準備ができてました。いくつかの理由で発売が遅れ、この時期になった。はからずも、大災害で、人々がラジオの報道や情報伝達力に注意を向けた時の発売になりました。
これは完全に、エンターテインメントとしてのラジオについての本です(一部、ラジオからはみ出し、落語や放送作家やテレビやステージについても書いていますが…)。こういう内容とタイトルの本がこの時期の発売になったのは、たんなる偶然。
偶然に「意味」を汲み取ってしまうのは、それこそ「無意味」なことかもしれない。けれど、(こんな私でも)ちょっとは考えてしまうのですよ。それを連続ツイートしてみます。少し長くなりそうです(注・先に言っときますが、とくに「笑い」はないと思う)。
*******
「災害時にはラジオがいい」…というのは毎回、大災害がおきた時に言われます。しかし、「いざ使おうと思ったら電池がきれていた」「ラジオがどこにあるのかわからない」、さらには「そもそもラジオを持っていない」というケースが多いのも事実です。
だから、「震災地にラジオを送ろう!」という運動になる。今回もそうだが、阪神あわじ大震災の時もそうでした。状況は16年前と変わってないのです。そして、この間におきたいくつかの災害においても。
大災害直後の今は、多くの人がラジオというメディアを頼もしく思い、聞いているようです。ポケットラジオを持ち歩くようになった人もいるでしょう。被災地はもちろん、それ以外の場所でも。
だけど、半年後、一年後はどうでしょう? 電池がきれたあと、入れ替えてまた聞き続けているだろうか? またもや「あれ、ラジオはどこにあったっけ?」…となるんじゃないだろうか?
人はイザという時、ふだん接しているメディアに頼るものです。それはテレビか? ラジオか? 新聞か? ツイッターか? フェイスブックか? ネット情報か? あるいはケータイか?
断っておきますが、私は「ラジオこそがもっとも有効な災害時メディアだ」と言う気はない。ラジオは、映像がない、一覧性がない、文字情報が記録として残らない…という致命的な欠陥(とあえて言う)を抱えたメディアであることを知っています。
一方で、即時性、機動力、肉声による安心感、俯瞰ではなく接近による取材、電池一本で長時間持つ…という利点を持ったメディアであることも知っています。
メディアには、それぞれに得意や不得意があります。情報を、テレビだけでなく、ラジオやツイッターやその他の方法とあわせ、自分で判断できるのが理想でしょう。それに、複数のルートを持っておけば、どれかが駄目になっても孤立せずにすみますから。
災害時、私たちエンターテインメント系作家にできることは少ない。それはもう、申し訳ないくらいに、少ないのです。振り返れば…、88年前の関東大震災直後、多くの文芸作家たちが、やはりそういう無力感にとらわれていたといいます。
その関東大震災での情報不足の反省から、日本でのラジオ放送スタートが早まった。震災から1年半後です(もちろんNHK一局のみ)。なのに皮肉なことに、現在、災害時に「ラジオがない」という事態を、私たちはもう何度も繰り返しています。
だから…ちっぽけなエンターテインメント系作家としては、思うのです。ラジオに関していうならば、ふだんから聞きたくなる面白い番組を作り続けるというのが(遠回りではあるけど)イザという時のためなのかもしれないと。
その、ふだんのラジオは気晴らしで聞いてくれていいんです。アハハと笑ってあとはすっかり忘れてしまう時間でもいい。ぼんやりと過ごす時のBGMでもいい。娯楽は、娯楽。それだけ。
そういうふだんのラジオ番組の裏側を本に書いた。それが、ラジオが注目されるこの時期に出版されるという「偶然」に、ひょっとしたら何か意味があるのかもしれない…と、いまは思っています。むろん最初に書いたように、まるっきり「無意味」な考えかもしれないけれど。
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……以上で、「ラジオ」についての連続ツイート終わりです。長々と、(笑いもなく)、すみませんでした。
「ラジオについて」
「ラジオにもほどがある」という本は、ほぼ1年前に原稿の準備ができてました。いくつかの理由で発売が遅れ、この時期になった。はからずも、大災害で、人々がラジオの報道や情報伝達力に注意を向けた時の発売になりました。
これは完全に、エンターテインメントとしてのラジオについての本です(一部、ラジオからはみ出し、落語や放送作家やテレビやステージについても書いていますが…)。こういう内容とタイトルの本がこの時期の発売になったのは、たんなる偶然。
偶然に「意味」を汲み取ってしまうのは、それこそ「無意味」なことかもしれない。けれど、(こんな私でも)ちょっとは考えてしまうのですよ。それを連続ツイートしてみます。少し長くなりそうです(注・先に言っときますが、とくに「笑い」はないと思う)。
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「災害時にはラジオがいい」…というのは毎回、大災害がおきた時に言われます。しかし、「いざ使おうと思ったら電池がきれていた」「ラジオがどこにあるのかわからない」、さらには「そもそもラジオを持っていない」というケースが多いのも事実です。
だから、「震災地にラジオを送ろう!」という運動になる。今回もそうだが、阪神あわじ大震災の時もそうでした。状況は16年前と変わってないのです。そして、この間におきたいくつかの災害においても。
大災害直後の今は、多くの人がラジオというメディアを頼もしく思い、聞いているようです。ポケットラジオを持ち歩くようになった人もいるでしょう。被災地はもちろん、それ以外の場所でも。
だけど、半年後、一年後はどうでしょう? 電池がきれたあと、入れ替えてまた聞き続けているだろうか? またもや「あれ、ラジオはどこにあったっけ?」…となるんじゃないだろうか?
人はイザという時、ふだん接しているメディアに頼るものです。それはテレビか? ラジオか? 新聞か? ツイッターか? フェイスブックか? ネット情報か? あるいはケータイか?
断っておきますが、私は「ラジオこそがもっとも有効な災害時メディアだ」と言う気はない。ラジオは、映像がない、一覧性がない、文字情報が記録として残らない…という致命的な欠陥(とあえて言う)を抱えたメディアであることを知っています。
一方で、即時性、機動力、肉声による安心感、俯瞰ではなく接近による取材、電池一本で長時間持つ…という利点を持ったメディアであることも知っています。
メディアには、それぞれに得意や不得意があります。情報を、テレビだけでなく、ラジオやツイッターやその他の方法とあわせ、自分で判断できるのが理想でしょう。それに、複数のルートを持っておけば、どれかが駄目になっても孤立せずにすみますから。
災害時、私たちエンターテインメント系作家にできることは少ない。それはもう、申し訳ないくらいに、少ないのです。振り返れば…、88年前の関東大震災直後、多くの文芸作家たちが、やはりそういう無力感にとらわれていたといいます。
その関東大震災での情報不足の反省から、日本でのラジオ放送スタートが早まった。震災から1年半後です(もちろんNHK一局のみ)。なのに皮肉なことに、現在、災害時に「ラジオがない」という事態を、私たちはもう何度も繰り返しています。
だから…ちっぽけなエンターテインメント系作家としては、思うのです。ラジオに関していうならば、ふだんから聞きたくなる面白い番組を作り続けるというのが(遠回りではあるけど)イザという時のためなのかもしれないと。
その、ふだんのラジオは気晴らしで聞いてくれていいんです。アハハと笑ってあとはすっかり忘れてしまう時間でもいい。ぼんやりと過ごす時のBGMでもいい。娯楽は、娯楽。それだけ。
そういうふだんのラジオ番組の裏側を本に書いた。それが、ラジオが注目されるこの時期に出版されるという「偶然」に、ひょっとしたら何か意味があるのかもしれない…と、いまは思っています。むろん最初に書いたように、まるっきり「無意味」な考えかもしれないけれど。
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……以上で、「ラジオ」についての連続ツイート終わりです。長々と、(笑いもなく)、すみませんでした。
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