今度の土曜日2011/04/19 23:51

『柳家花緑の世界は落語だ!』は4月23日(土)13:00開演と17:00開演。草月ホールです。

「ニュースを落語にしよう! だいたい、落語だって、歌舞伎だって、人形浄瑠璃だって、実際にあった出来事をもとに、タイムリーに作られたものがたくさんあるんだ」
ということで始まった企画でした。

ご存知のように、その後、あの大災害が最大のニュースとなりました。開演まで一ヶ月しかありません。
「どうしよう?」
再び花緑師匠と緊急打ち合わせをして、
「やろう!」ということになりました。
「しかも、あくまで落語としてのアプローチで」と。

で、書きました。
さて、花緑師匠がどういう舞台にしてくれるのか? 僕も楽しみです。
よろしかったら、観に来てください!

落語です。笑いいっぱいです。でも、ニュースです。
http://www.me-her.co.jp/karoku/sekaiharakugo.html

まとめ2011/04/21 02:07

 複数の方から問い合わせがあったので、4月8日に連続ツイートしたものを、まとめて掲載しておきます。どうやらツイッターの世界では、そうしておくのが慣例のようですから。(連続文をまとめた以外、文章はそのままです)

「ラジオについて」

「ラジオにもほどがある」という本は、ほぼ1年前に原稿の準備ができてました。いくつかの理由で発売が遅れ、この時期になった。はからずも、大災害で、人々がラジオの報道や情報伝達力に注意を向けた時の発売になりました。
 これは完全に、エンターテインメントとしてのラジオについての本です(一部、ラジオからはみ出し、落語や放送作家やテレビやステージについても書いていますが…)。こういう内容とタイトルの本がこの時期の発売になったのは、たんなる偶然。
 偶然に「意味」を汲み取ってしまうのは、それこそ「無意味」なことかもしれない。けれど、(こんな私でも)ちょっとは考えてしまうのですよ。それを連続ツイートしてみます。少し長くなりそうです(注・先に言っときますが、とくに「笑い」はないと思う)。
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「災害時にはラジオがいい」…というのは毎回、大災害がおきた時に言われます。しかし、「いざ使おうと思ったら電池がきれていた」「ラジオがどこにあるのかわからない」、さらには「そもそもラジオを持っていない」というケースが多いのも事実です。
 だから、「震災地にラジオを送ろう!」という運動になる。今回もそうだが、阪神あわじ大震災の時もそうでした。状況は16年前と変わってないのです。そして、この間におきたいくつかの災害においても。

 大災害直後の今は、多くの人がラジオというメディアを頼もしく思い、聞いているようです。ポケットラジオを持ち歩くようになった人もいるでしょう。被災地はもちろん、それ以外の場所でも。
 だけど、半年後、一年後はどうでしょう? 電池がきれたあと、入れ替えてまた聞き続けているだろうか? またもや「あれ、ラジオはどこにあったっけ?」…となるんじゃないだろうか?

 人はイザという時、ふだん接しているメディアに頼るものです。それはテレビか? ラジオか? 新聞か? ツイッターか? フェイスブックか? ネット情報か? あるいはケータイか?
 断っておきますが、私は「ラジオこそがもっとも有効な災害時メディアだ」と言う気はない。ラジオは、映像がない、一覧性がない、文字情報が記録として残らない…という致命的な欠陥(とあえて言う)を抱えたメディアであることを知っています。
 一方で、即時性、機動力、肉声による安心感、俯瞰ではなく接近による取材、電池一本で長時間持つ…という利点を持ったメディアであることも知っています。
 メディアには、それぞれに得意や不得意があります。情報を、テレビだけでなく、ラジオやツイッターやその他の方法とあわせ、自分で判断できるのが理想でしょう。それに、複数のルートを持っておけば、どれかが駄目になっても孤立せずにすみますから。

 災害時、私たちエンターテインメント系作家にできることは少ない。それはもう、申し訳ないくらいに、少ないのです。振り返れば…、88年前の関東大震災直後、多くの文芸作家たちが、やはりそういう無力感にとらわれていたといいます。
 その関東大震災での情報不足の反省から、日本でのラジオ放送スタートが早まった。震災から1年半後です(もちろんNHK一局のみ)。なのに皮肉なことに、現在、災害時に「ラジオがない」という事態を、私たちはもう何度も繰り返しています。

 だから…ちっぽけなエンターテインメント系作家としては、思うのです。ラジオに関していうならば、ふだんから聞きたくなる面白い番組を作り続けるというのが(遠回りではあるけど)イザという時のためなのかもしれないと。
 その、ふだんのラジオは気晴らしで聞いてくれていいんです。アハハと笑ってあとはすっかり忘れてしまう時間でもいい。ぼんやりと過ごす時のBGMでもいい。娯楽は、娯楽。それだけ。
 そういうふだんのラジオ番組の裏側を本に書いた。それが、ラジオが注目されるこの時期に出版されるという「偶然」に、ひょっとしたら何か意味があるのかもしれない…と、いまは思っています。むろん最初に書いたように、まるっきり「無意味」な考えかもしれないけれど。
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……以上で、「ラジオ」についての連続ツイート終わりです。長々と、(笑いもなく)、すみませんでした。

ほっと胸をなでおろす2011/04/24 23:15

けっこう内心はドキドキだったんですよ。

23日(土曜)にあった『柳家花緑の世界は落語だ!』という落語会。

時事ネタ・ニュースを笑いのエンターテインメントにするのは、
これまでも「コント」「ドラマ」「ショートショート(小説)」「トークネタ」で書いてきたことなので、(まあ、できるだろう)と思ってました。
しかし、「落語」としてが、実はちょっと不安だったのです。

いえ、落語として演じられることへの不安ではないですよ。そこは、達者な花緑師匠だから、全面的に信頼しています。脚本以上に面白くなることは、最初からわかってました(事実、そうなりました)。

ただ、落語ファンのお客さんがどう受け止めるか…という点が不安だったのです。(このへんの、落語への僕の思いは、拙著「ラジオにもほどがある」にも書いてます。現在、小学館文庫から、タッタ620円で発売されたばかり!……告知終わり)

そしてもう一つの不安は、この大災害後…いや、まだ「後」ではありませんね。現地では「最中」です…に、時事ネタ落語(災害を前提にした時事です)を、お客さんがどう感じるか?…という点。これはまったく、未知の領域でした。

でも、杞憂でしたね。お客さんはおおいに笑ってくれました。それは投げやりで刹那的な笑いではなく、優しい心で前向きな笑いでした。

僕は、「日本人の底力」…という万能薬みたいな言葉があまり好きではないのですが、
この時は、「みんな、バランス感覚がしっかりしてる。大丈夫だ」と思いましたね。あと、「落語という話芸の持つ懐の深さ」も実感しました。

それにしても驚くべきは、柳家花緑師匠の驚異の記憶力と、舞台度胸と、リカバリーの力! 総合すれば「落語力」なんでしょうね。落語家さんって、ホントに凄いなあ。尊敬します。

さて、時事ネタというのは、その上っ面はたしかに流れ去ってしまう時事ですが、底に普遍的な人間の心が描かれていれば、実は長生きするものなのです。
今回書き下ろした4ネタのうち3ネタは、そういう意図で書いています。もしかして、1つでも、長生きしてくれたら嬉しいなあ。

反応の時間差2011/04/26 08:20

「ラジオにもほどがある」(小学館文庫)が発売され、そろそろ三週間。いろんな方から反応が返ってきてます。

最初は、オードリー・ファン。オードリー関連は終章と巻末対談の二つ。ボリュームとしては、本全体の2割くらいだと思うのですが、やっぱり、いま勢いのあるファンですから反応が早い。

それがだんだん一段落してくると、伊集院光ファンからの反応が届いてくる。「芳賀ゆい、知ってます!」なんていう方たち。
そして、「いっこく堂のラスベガス行きって、裏ではあんなことになってたんですか!」という感想も。
ボリューム的には、この二つが大きいですからね。それぞれ、本全体の3割ずつくらいかな?

それから、「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン、聞いてました!」という反応もくる。ごく少数ですが「イタリア大好き」の反応もくる。

それぞれのタレントさんのファンごとに、反応の時間差があるのが面白い。年齢の違いなのかなあ?やっぱり、若いと反応が早いんだ、きっと。

でも、若いオードリーファンには、いっこく堂ブレイクはまだしも、伊集院光デビューなんてまったく知らない過去の出来事だろうけど、
「知らないことばっかりだったけど、とても面白かった」
と言ってくれるのが、嬉しいですねえ。
面白いことって、時代とか年齢とかに関係ないんだ…というのが、よおくわかるもん。

よろしかったら、買ってね! 感想、聞かせてね!